99年長崎博多紀行

99年8/1〜8/5

 皆さんはあの寝台特急「あかつき」を覚えているだろうか。今回は「なは」増結前の独立期の頃の「あかつき」を含めて紹介したい。

↓1日目↓

午後7時頃に京都に到着。ここから8時32分発の寝台特急「あかつき」に乗り,一路長崎を目指す。

 この頃の牽引機は,当時九州方面の寝台特急で活躍していたEF65である。列車は11両で7番乗り場に滑り込んで来た。
 「あかつき」などに使われている客車は14系15型寝台車である。オレたちが乗ったのは3号車で,オハネ14の300番台(B寝台個室)だったと記憶している。
 堂々と掲げられたレガートシートのロゴ。レガートシートは,夜行バスに対抗するために登場した女性専用車両で,1990年に登場した。

 7番乗り場にて,弟と。個室で両親と旅行記のメモ整理に明け暮れていたのを思い出す。

 佐世保行きの方向幕。この当時は長崎行きと佐世保行きが存在しており,途中の肥前山口で切り離される。

 8時32分に京都を出発。その後姫路あたりで就寝する。

「あかつき」のカードキー。個室車両にのみ存在する。

 

↓2日目↓

あけて8月2日,午前7時に博多駅で目覚める(この瞬間は今でもはっきりと覚えている)。

 肥前山口駅にて。ここで後部の付属編成を切り離す。親父と弟と一緒に分割作業を眺めていて,終わった途端すぐにドアが閉まったため,かなり焦った記憶がある。
 分割作業の合間に,813系と。
 午前8時54分,列車は無事長崎に到着。九州内ではED76が牽引機となる。
 京都行きの方向幕。この日の夕方もまた京都へと長い旅に出るのだ。
 485系のレッドエクスプレス,俗に言う「赤いかもめ」と。2000年頃に885系に置き換えられ,「白いかもめ」と愛称もつじつまが合うものになった。

長崎の駅前を走る路面電車たち。後にこの駅前で,あの長崎市長殺人事件が起ろうとは想像してもいなかった。

で,しばし観光。浦上天主堂,グラバー亭,孔子廟,崇福寺,出島のミニチュアを見学する。その後,市内のホテルに宿泊。

彫刻家・舟越保武が制作した26聖人のレリーフ。まさに壮観!!

 

↓3日目↓

あああ〜,長崎は〜,今日も〜雨だった〜♪ 

 長崎駅にて。クモハ485-0番台とシーサイドライナー用のキハ200系。

 この当時シーサイドライナーとして走っていた。キハ58と。2両編成で後ろは九州標準色(白に青帯)であった。

 思えばこの時以来キハ58系を一度も見たことはない。いまではもう数が激減しているからな・・・・・・。去年だったと思うが,一般運用で最後まで活躍していたキハ28-2444も解体されたからな・・・・・・。

 783系。今ではもう,後から出てくる「ハウステンボス」にも充当されている。2000年に「みどり」とともに485系から置き換えられ,現在でも活躍している。
 シーボルト号とキハ47の普通列車の並び。写真のキハ47は2両編成だが,後でビデオを確認したところ,片方はキハ47-160であることが分かった。加えて,クーラーも集中型に置き換えられていたのも分かった。
 念願のシーボルト号でハウステンボスに到着。長崎を出て長いトンネルを抜けてから諫早に着くまで,ずっと展望席にいたのを思い出す。

宿泊は「ハウステンボス」内部にある洋風ペンションだった。とても綺麗な内装だったのを覚えている。

↓4日目↓

この日から2日かけて,夏休みの宿題のため博多織などを見学することに。

 485系「ハウステンボス」で博多へ。この翌年あたりに783系に置き換えられた。九州内で見られる他の485系よりも更に突出して奇抜な塗装が最大の特徴であった。

 キハ71系「由布院の森」。こちらは3代目である。初代が同車の初期型(窓が多窓になっているもの),2代目が先述の「シーボルト」車である。雨に打ちつけられて博多から回送されて行った。

 485系特急「にちりん」。この時は博多乗り入れだったのだが,現在では大分〜宮崎間に短縮された。九州では他にも,「きりしま」「ひゅうが」で最後の活躍を見せている。

 ↓5日目↓

 

 

この日は西鉄で太宰府天満宮,観世音寺を見学。そして帰りは最新鋭の700系新幹線で帰宅。

以上,お読みいただきありがとうございました。

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